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無門会とは武道空手道を完成する試合形式とは何かを徹底的に考えていった組織団体である。
世界最高の完成する試合形式を創出せんとする志しから始まったのである。
最高の試合を形成する喜びに至るまで新たな武道空手道の試合方式、そして究極の武道空手道を求めて・・・



初期の戦い (1970年代中期)
 1975年6月1日の日本空手道無門会の第1回自由組手大会は「《猫足立ち系統》の蹴り技を直接打撃ルール、突き技を寸止めルール」といった、当時極真空手と寸止め空手のルールを足し合わせたような…新たな時代の空手の方向を考えたルールの試合方式であった。これからすべてが始まったのである。

 1973年に出場した極真会主催の第5回全日本空手道選手権大会で戦った結果、顔面を打たない空手ではいくら修行して戦って勝っても負けても意味がないのではないか…ということで「新たな本当の空手とは何か?」をそれこそ人生を賭けて探し出さなくてはならなかったのである。(詳細は富樫宜資自伝書を参照のこと)

 現在は勝ち負け無しの選抜方式(全国大会)と躰重別の勝ち負け有りの選抜方式(行事大会・定例大会)がある。選手は両者をうまく使いこなして完成度を高めつつあり、理想の空手は着実に実現されつつある。


完成する試合システムへの挑戦   
 単純に言えば、当時(1971〜1974)解決しなくてはならない重要なことが二つあった。
ひとつは己自身(富樫宜資)の真の空手を極めること、もうひとつは「寸止め空手ルール」でもない「顔面なしのフルコンルール」でもない「キックボクシングルール」でもない「単なる防具付き空手」でもない、「本当の空手の試合とは…何か」、新たな「本当の完成できる空手の試合方式とは…何か」という課題に歴史的な解答を出していかなくてはならなかったのである。

 勿論当時は空手以外の少林寺拳法、日本拳法、合気道…の全日本レベルの試合や演武会も見に行って「理想の武道空手道」とは何かを研究していた…。

 1974年から1975年(24歳〜25歳)にかけて「究極の武道空手道とは何か…」を徹底的に研究していた時期であった。極真空手の「猫足立ち系統・半後屈立ち」の山崎照朝の受け技を越えるべく「猫足立ち系統の受けの百人組手」(少年期の相撲の経験から創出した)という富樫宜資式の激烈な新たな実験をして「受け技とは何か…に解答を与えるべく」命懸けの実践研究しながら、さらにそれ以上の技(猫足立ち、後屈立ち、前屈立ち…)の技の構造も研究してした。以前から書いているように「30歳」までに空手の世界を絶対に完成する…という大変な重圧を自分に課したために〈完成することができないような無駄な思考や行動〉は極力省き、徹底的に空手の〈究極の有り方、完成体としての技の構造〉に解答を出すべく全人生を武道空手道に賭けなくてはならなかったのである。

 1974年前半に極真会館館長(総裁)の故大山倍達氏や玄和会の南郷継正氏と合い、その理論と実践を聞き、また彼らが開催する空手の試合も幾度か参加したり、見学していたが、空手に解答は出せなかった。当時南郷氏は「鉄面付き防具空手」を採用して前屈立ち系統の動きを採用していたが、1974年当時、私は「猫足立ちの受けの百人組手」という厳しい世界から「受けの完成された形、究極のユッタリズム」という独特の世界を築き上げ、新たな道を考えていた時期であった。「1974年」の1年で、私は彼らを越えるべく、受け技、受即攻技の世界を切り開いていたのである。

 猫足立ちの「極限の攻撃技、複雑な受け、受即攻技」から形成される極限の受即攻技は相手の攻撃技を吸い取るために極度に間合いが近くなり、相手に吸い付くようになることは1974年〜1975年の猫足立ちのユッタリズムの完成で充分理解することができていた。前屈立ちの「攻撃技、複雑な受け、受即攻技」の完成体は猫足立ちとの技術形態に相違はあれ、完成体に近づけば間合いが次第に近くなることは当然予想できることである。そして実践は5年10年の厳しい実践があって初めてその完成体への道が切り開かれるのである。特に『約束自由一本組手』の訓練は過去のいかなる運動神経、精神的な訓練から得た自信をも打ち砕く人間の極限のさらなる極限の世界で、特殊訓練を徹底的に年数をかけて築かないと絶対に達成できないはるかなる遠方の世界なのである。『約束自由一本組手』の世界を高度に築いてこそ、初めて『約束自由組手』『自由約束組手』の世界の完成、引いては『自由組手』の完成された高度な世界が見えて来るのである。



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