>無門会とは
>光と風と雲
>無門会の歴史
無門会の歴史




1973年12月
30歳まで完成するために最も有効で間違いのない世界とは何かを模索していた。

1973年12月
結局どこの団体も、どこの組織も完成していないという結論にいたり、自分自ら一から最終までひとつひとつ確かめる以外にないという最終的結論になった。
故に極意を得るための武道空手道研究組織団体として日本空手道無門会創設する。

1974年3月
赤坂直彦氏の紹介で日本獣医畜産大学で十文字を相手に新たな空手の練習入る。

1974年4月
猫足立ち系統の受けの訓練に入る。東郷入門。激しい受けの訓練を見学していた大学生や社会人が続々入門する。

1974年5月
受けの訓練は次第にエスカレートして10人組手、20人組手、30人組手と拡大して、やがて毎日が百人組手が当たり前になるようになっていった。
☆5月〜6月にかけて大山倍達、南郷継正といった空手界を代表する人物と会う“武道空手道の何たるか、あるべき姿”を知ることに必死であった。

1974年夏
弟子と一緒に多摩川河川敷で闇ナベをやる。数人の学生の弟子は夏休みに田舎に帰らないで私と一層厳しい訓練をやろうとした。

1974年秋
狭いウエイトトレーニング室から武道場に移る。ユッタリズムの形が段々出来上がっていった。新たに東郷を中心とした数人の弟子と質の高い練習を開始する。
☆極真の第6回全日本大会で盧山初雄敗北。前屈立ち系統の選手との戦いで後屈立ちの技の時間・空間的・技術的限界がやがて解明できた大会であった。猫足立ちの受即攻技の訓練は次第に自然とユッタリズムになっていった。

1975年前半
猫足立ちのユッタリズムの完成から、その構造を理事一体で考え、やがて猫足立ちの受け技の構造の限界を見い出し後屈立ち、前屈立ち系統の技術を研究し始めるもっとも重要な起因となった時期であった。
『自らを完成すること(猫足立ちの完成)により、他のものを創造し(後屈立ち、前屈立ち、唯物弁証法…)、自らを他のものとして創造する…』(マルクス)その理論を初めて実践した時期であった。


実験大会開始
1975年6月
第1回自由組手大会開催。(顔面防具無し)
「顔面突き寸止めルール、蹴り技直接打撃ルール」というヌエ的試合であった。
☆富樫宜資個人はユッタリズム理論を元に後屈立ちの受即攻技の構造を論理的に解明し、実践訓練をする。やがてこの後屈立ちの「受即攻技の完成理論と実践」は後屈立ちの『自らを完成することにより、他のものを創造し、自らを他のものとして創造する』(マルクス)を実践することになり、前屈立ち系統の「攻撃技、複雑な受け、受即攻技、カウンター技」の理論の解明へとつながっていくことになった。
その内容は『格闘技通信』に連載。現在教本としている。現在内容を検討した結果、新たな出版を考慮中。
☆やがて前屈立ち系統の受即攻の理論構造を解明し、死に物狂いの徹底した訓練を実践しようと考え、約1年間、山に籠って徹底的に修行することを考え始める


武道空手道完成理論の完成
1975年秋
第2回自由組手大会「ルールは第1回大会と同じ」(顔面防具無し)
☆主要の全流派のトップクラスの動きを1コマ1コマ分析、究極の動きとは何か…が次第に見え始める。「つまりだれも突き技を受即攻できないし、受即攻する理論と実践は空手界にはないのだ」ということが完全に理解でき、「私が不可能な理論と実践を人類史上初めて可能にしてやろう」決心し1年の山籠りを決定する。


前屈立ち完成のため1年の山籠り修行へ
1976年1月
奥多摩まで幾度か足を運んで1年の長期修行のために山籠りの準備をする。

1976年2月
長期にわたる修行に入る。前屈立ち系統の訓練にゼロ発心から邁進し始める。

1976年春
第3回自由組手大会開催(顔面防具無し)
大会準備のために1週間ほど下山する。
大学で訓練していた弟子の間で次第に猫足立ちから前屈立ちの練習が主流となる。
富樫宜資会長が「何のために弟子の指導をやめて空手の修行に入るのか?」「ユッタリズムという猫足立ちの最高の技を極めても何故それをアッサリ捨てて前屈立ち系統の空手をゼロ発心するのか?」猫足立ちの受けの30人組手〜50人組手を実践できる富樫の実力派の弟子も「富樫宜資会長の新たな武道空手道の思想を見直そう、自分たちもゼロから学び直そうという気運が育成されてきていた」

1976年秋
第4回自由組手大会開催。(顔面防具無し)
☆大会準備のために2週間ほど下山する。
12月末下山。もうこれ以上やる必要がないというくらい徹底的に受即攻技を鍛練する。相手の姿が見えてくる。受即攻技を総合で約300万本以上練習する。
「相手の姿、動きが見えてくる…」というこの不思議な現象は、「極限の攻撃技、複雑な受け、受即攻技」の数百万本という訓練から創出されたものである。


実践組手の実験開始(試行の上段・中段無双の構えより開始)
1977年1月
新たなる弟子と新たなる前屈立ち系統の基本訓練に明け暮れ始める。
○滝澤賢次七段この年の春に友人の会員の紹介で入門。

1977年春
第5回自由組手大会開催。(薄い顔面防具実験使用)この大会以降顔面防具使用
新たなる前屈立ち系統の弟子と旧猫足立ち系統の弟子とで技術対決があり、前屈立ち系統の弟子が勝利する。
『蹴り技中心空手』から『突き技中心空手』へ移行する大会となった。


徹底した丁寧指導の開始
☆基本練習、約束組手を徹底的に親切丁寧に事細かく指導する。しかし後のこれ弟子が駄目になる起因となった。指導の試行錯誤時代が10年以上続くことになったのである。
埼玉県アシガクボで第1回の夏合宿を行う。

1977年秋
第6回自由組手大会開催。
○入門半年後の試合で滝澤賢次優勝。
激しい攻撃技を習得した滝澤が優勝する。
☆徹底的に親切丁寧に一撃必殺の攻撃技を指導する。


富樫の受即攻完成前の多くの実験失敗と成功
1978年春
第7回自由組手大会開催。
会長の受即攻技の完成度が高まったのと平行して受即攻スタイルの選手が優勝し始める。
☆下山から2年目、弟子に受即攻思想が浸透し、滝澤の激しい攻撃技を受即攻する者が出現するようになった。単純攻撃に対する初期的受即攻技の芽生え時代。
滝澤賢次の単純攻撃に対してそれを受ける二重の受即攻が会長の重箱の隅をつついても丁寧に教える懇切指導の中で富樫の後ろ押しのようなエスカレーター式に
受即攻技は上にあがっていった。

1978年秋
第8回自由組手大会開催。
初期的受即攻スタイルの選手がさらに優勝する。
☆富樫宜資の受即攻技の厳しい訓練はそのまま弟子に電流のように伝わり稽古相手の弟子が次々と優勝した。滝澤賢次の単純攻撃も多くは防御された。


受即攻スタイルの選手の台頭と崩壊
1979年春
第9回自由組手大会開催。
受即攻スタイルの選手がさらに優勝する。無門会空手全体に受即攻中心主義の思想が発展する。
☆富樫宜資はこの年最終的な完成のために約束自由一本訓練の特殊、特別訓練をする。それは約束自由一本組手〜約束自由組手、自由約束組手で相手に面を付けさせ、自分は面を外し「殺しに来い」という「死に物狂い」の「真剣勝負訓練」を課するようになった。またそれができるまでに反応力が育成されていた。

1979年秋
第10回自由組手大会開催。
富樫宜資の最終完成期に富樫の受即攻技の稽古相手であった一人が優勝した。
その弟子の評価は難しいが、稽古相手として私からはぶちのめされてのたうち回された弟子の一人であるが、稽古相手だからこそ一面(受即攻用の攻撃技)では発展する場合もあることは確かである。おそらく私には通用しなかった技術であっても、他の受即攻が甘い弟子(選手)には通用したのであろう。しかし1980年代になると新たに育てた弟子に追撃され1970年代後半の弟子は滝澤賢次七段を除きほとんど崩壊していく。「研究心、修行を怠(おこた)った怠(なま)け者は崩壊する…結論」

☆極々前屈立ちの極々受即攻技の完成期は弟子の肉体の崩壊という厳しい事態に至った事で死の危険性を実感し、受即攻の極限練習を休止することにした。1970年代に育てた弟子は、自分の頭で考え自分の力で完成してやろうという高度な思想をもった弟子ではなく、また富樫自身指導者初期段階で徹底的に教えることが最重要とばかり、当時は「教えない教え」という高度な指導ではなく「考える回路を断ち切って」しまう単なる単純親切指導者であった。
エスカレーター式に上にあがった弟子はエスカレーターが無くなったとき崩壊する…といったことがまさに現実となった。1970年代の弟子はやがて滝澤賢次を除いてすべて崩壊していった。


超一流の指導者を目指して新道場への移転
プロフェッショナル指導構想の中で
(1980年1月1日)
1979年富樫宜資は武道空手道の完成をついに果たし、過去の人類にない新たな武道空手道の分野を切り開き、新たなる空手道を新たなる人々に新たに指導すべく八王子の一隅に道場を構える。しかし個人的には1979年に「極々前屈立ちの極々受即攻訓練」の「破壊力」で肉体を破壊されたことで怖くなってそれまでの弟子の多くが逃げ出した。またエスカレーター式の教えられて育成された弟子は最終的な約束自由組手、自由約束組手、自由組手の技術を親切丁寧に教えなくなった結果、自力で山に登る技術の探求の道はまったくなくなり山に上はトップクラスにとって暗闇となり、技術的、精神的向上心は1979年から1980年にかけて急激に失っていった。その一部のなかには精神的にも歪み、正統な極限の探求の道から外れ、厳しい修行もしないで、愚かな売名行為に走った歪んだ人間もいる。また防具を付けても毎日バットで頭を殴るような極々受即攻技の極限の威力で、弟子の脳が破壊すること…極限の武道空手道の厳しい世界の常時使用の危険性…など多くの疑問が生じ始めて、しばらく「極々受即攻技」は休むことにした。極限の武道空手道の試行錯誤時代である。健康や安全と極限の真剣勝負の問題はなかなか難しい。高度な安全認識と安全防具が必要である。極限の危険と安全性の厳しい問題が武道空手道にはあったからである。それが解決できなかったのである。






プロフェッショナル空手道の極限の追求の試行の10年の始まり

1980年代の試行、極限の約束自由一本組手訓練への志向

富樫宜資の空手の完成を果たした内容を自己分析すると、約束自由一本組手の完成が受即攻技の完成への最大の難関な関門ということで、約束自由一本組手の完成を弟子に求める実験を行った。


新たな指導者決意編
「新たなる弟子達をいかにしたら完成させることができるか?」

1980年7月
第11回自由組手大会開催
「新たなる大会、新たなる試合形式とは何か?」大会は1970年代の弟子が優勝したが、この弟子は苦しい訓練から逃げ出し、厳しい訓練をしないまま大会出場をした。新たなる弟子はまだ修行数カ月でほとんど育っていなかった。それまでの貯金で優勝したようなものである。

1980年11月
第12回自由組手大会開催
極限育成追求編(弟子に極限の反応力を求め過ぎて、富樫宜資的人間育成の失敗)
「弟子完成させるにはまず約束自由一本組手技術を完成させることが最重要課題と判断したし実行した」以後5年に渡り、弟子達に約束自由一本組手の千人組手を課した実験を行った元となった。

1981年7月
第13回自由組手大会開催

1981年11月
第14回自由組手大会開催


極限の世界の公開編(公開による反応と対応)
富樫の受即攻技の完成された世界を第15回大会で最初で最後の初公開をする。

1982年7月第15回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次
1982年11月第16回自由組手大会開催、優勝井上実
1983年10月第17回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次
1984年11月第18回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次
1985年11月第19回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次


極限育成失望編
(プロ的完成は一旦あきらめる)
約束自由一本組手の点数化は失敗で受即攻技の弟子の完成を一旦あきらめる。

1986年11月第20回自由組手大会開催、優勝座崎邦男
1987年12月第21回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次
1988年12月第22回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次
1989年11月第23回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次






新たなる決意編[マスコミを通じて全国に向けてのメッセージ]
未完成の完成
…約束自由組手、自由約束組手の理論と実践の解放実験

1990年11月第24回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次
1991年11月第25回自由組手大会開催、優勝滝澤賢次


第1回の全国大会
1992年12月第26回自由組手大会開催
1993年11月第一回猫足立ち躰重別・自由組手大会(新構想)
1993年12月第27回自由組手大会開催
1994年11月第二回猫足立ち躰重別・自由組手大会
1994年12月第28回自由組手大会開催
1995年7月第一回躰重別・上半身自由組手大会開催(新構想)
10月第三回猫足立ち躰重別・自由組手大会開催
11月第一回躰重別・自由組手大会開催(新構想)
12月第29回自由組手大会開催
1996年7月第二回躰重別・上半身自由組手大会開催
10月第二回躰重別・自由組手大会開催
11月第四回猫足立ち躰重別・自由組手大会開催
12月第30回自由組手大会開催


プロ構想編[セミプロ超越思想の育成と充実]
1997年1月第1回定例大会開催(新構想)
2月第2回定例大会開催
3月第3回定例大会開催
4月第4回定例大会開催
5月第5回定例大会開催
6月第三回躰重別・上半身自由組手大会開催
7月第6回定例大会開催
8月第7回定例大会開催
9月第五回猫足立ち躰重別・自由組手大会開催
9月第三回躰重別・自由組手大会開催
12月第31回自由組手大会開催



優勝者の自己改革発展編「江口慶貞の発展的止揚」
真田英生四段、一気にカウンター技術で頂上へ

1998年1月第8回定例大会開催
2月第9回定例大会開催
3月第10回定例大会開催
4月第11回定例大会開催
5月第12回定例大会開催
6月第四回上半身自由組手大会開催
7月第13回定例大会開催
8月第14回定例大会開催
9月第四回躰重別・自由組手大会開催
10月第六回猫足立ち躰重別・自由組手大会開催
10月第一回関西大会開催、優勝、下澤猛(新構想)
12月第32回自由組手大会開催(真田英生カウンター炸裂)


年代的チャンピオン決定

1998年
全国高校生チャンピオン飯田敬洋
全国大学チャンピオン竹元英陽
全国20代チャンピオン江口慶貞
全国30代チャンピオン古川恭司
全国40代チャンピオン土屋利夫

1998年は全国大会で真田英生の登場によって無門会空手は新たな歴史を刻むようになった。


セミプロ完成期編[極意の世界へ突入、極意の山の麓に到着]
『ライバルによって人間は発展する!』

1999年1月第15回定例大会開催、優勝、江口慶貞
定例大会のカウンターの初の勝利
2月第16回定例大会開催(カウンターの勝利)「極意の麓」
3月第17回定例大会開催
4月第18回定例大会開催「極限の受即攻技の極意の麓」
5月第19回定例大会開催
6月第二回関西中部大会開催
6月第20回定例大会開催


定例大会による受即攻の初の勝利
1999年7月第五回躰重別・上半身自由組手大会開催
(今度は真田英生の未成熟なカウンター技術に厳しい試練が始まった大会)
8月第21回定例大会開催
9月5日第三回中部関西大会
9月25日第五回躰重別・自由組手大会開催
10月24日第22回定例大会、第七回猫足立ち躰重別・自由組手大会






全国大会第三十三回自由組手大会
世紀末伝説、英雄達の聖戦編[極限思想の聖戦]



2000年度ミレニアム全大会

2000年1月30日新春記念大会
2月27日第23回定例大会開催
3月26日第24回定例大会開催
4月30日第25回定例大会開催
6月11日第四回関西大会開催
6月25日第六回躰重別・上半身自由組手大会開催
7月30日第27回定例大会開催
8月27日第28回定例大会開催
9月24日第六回躰重別・自由組手大会開催
10月29日第29回定例大会開催


ミレニアム2000年
全日本武道空手道選手権大会
第三十三回自由組手大会
世紀末伝説、英雄達の聖戦
2000年12月10日

2000年の活動の2001年の方針
セミプロ熟成からプロフェッショナル育成へ

大会の実績と充実

今年は〔第23回〜第29回定例大会〕、〔第4回関西大会開催〕、〔第6回躰重別・上半身自由組手大会〕、〔第6回躰重別・自由組手大会開催〕という試合に流れと、新たな組織充実に歴史があった。

総評
江口慶貞五段を中心とした1990年台後半の日本空手道無門会の大会技術の流れは1990年代末に至ってついに《受即攻技中心の伊藤秀敏四段、古川恭司四段》《カウンター技術の真田英生四段》を中心とした高等技術が追いつき始めた重要な世紀末伝説となる数年であった。1997年〜1999年まで蓄積された高等技術は2000年になって大きく熟成しはじめたのである。ついに江口五段の厳しい攻撃技と江口慶貞五段に肩を並べるまでに達してきた年であった。
日本空手道無門会の武道空手道を完成する「極限の理論と実践」は本当に難しい。富樫宜資の極限の指導者育成を志した1980年代はプロフェッショナル武道空手道の極限の理論と実践の試行錯誤の10年であった。そして1990年代は無理をしない「教えない教えの空手思想」を中心としたセミプロ空手道の10年であった。そして武道空手道の完成を追求するセミプロ空手を志す若者達はついにプロフェッショナル武道空手道の麓(ふもと)から一歩一歩確実に登頂し始めた「偉大なる世紀末伝説、英雄たちの聖戦」は大きな歴史的は時代に突入する。



新世紀2001年
全日本武道空手道選手権大会
第三十五回自由組手大会

新世紀創世伝説・英雄達の零戦
2001年12月15日



奇跡の空手2002
全日本武道空手道選手権大会
第36回自由組手大会

理想の空手
世界を変える空手
プロ創造の黎明期
2002年12月22日

総評
今回の大会の基本的な考え方は、「実力、気力、充実、温存、発展」という趣旨であった。無門会空手はここ10年近く「理想の空手」を掲げ、無門会空手独特の「完成する空手」の動きが有段者の中に浸透し、ハイレベルの戦いが繰り返されるようになった。
「構え、攻撃、受即攻スタイル」は洗練され、他流派の入り込む余地がないほど有段者の戦いは磨きがかかってきている。そうした流れの中で、今大会は「ゼロand無限」というテーマであった。「リセット」(今までの実績に対してすべてゼロ状態に戻して原点から自分を見つめてこそ発展がある…)が「無限の世界の道を切り開く」というテーマであった。
ゼロ状態は自分の今までの経験、実績をすべて一回消滅させ、「初めの一歩」からやり直そうという「自覚」をもつということである。それによって「突きの形が悪い、蹴りが下手だ、本当は無門会空手の本質を何も知らなかった、一からやり直してみよう](基本は極意)といった初心者の気持ちを持つことであり、それが一層「完成への道」を切り開いてくれるということである。
「車の運転にベテランはない…」(ベテランこそ事故を起こしやすい)と言うことである。確かに空手のベテラン、特の高段者になってくると何か自分の築いた「技術、精神力」に自信は持つが、「車のベテランの運転事故が多発」しているのは「油断」や「基本的な運転操作のミス」で事故を引き起こしている場合が多い。
現在多くの金融関係、政治関係のトップクラスのベテランが降格したり、人生の敗残者になっているのは常に「上」ばかりみて「自分の原点」を確認できなかったからである場合も多い。
「基本が極意」そして「現時点の自分」、そして「完成して行く自分」の「三位一体」を再確認しないと「己の欠点」が見えないで「自己崩壊」していく可能性がある。

無 門 会 空 手 の 技 術 は 武 道 空 手 道 の 無 限 性 を … 
無門会空手の日ごろの練習、試合をすべて「常に自分の原点を見直し、自分の実力を再確認し、無限の自分の発展の道を探る…」というものである。
2002年の前半(格闘Kマガジンで紹介)において江口慶貞五段と約束組手(発展系)の稽古を一緒に練習することができ彼の発展系の稽古を確かめることができた。
突き技、蹴り技、受即攻技で相当なレベルに達していることは確認できたが、受即攻技の反応力においてはまだまだ課題があることを確認した。今後この「無門会空手の最大の課題」というべき「反応力」を江口慶貞五段がどう克服していくかが今後の課題がある。




新世紀2003年
全日本武道空手道選手権大会
第三十七回自由組手全国大会

新世紀創世伝説・英雄達の激闘
ゼロ&無限
2003年11月24日

総評
今回の全国大会はフランスからルノー・マーシャルが参戦し、今までにない内容の濃い大会となった。江口慶貞六段が真田英生五段と二十分前後の激闘・死闘の中で見事に優勝した。総本部の入門一カ月の新人渡邊守無級が全国の新人を破り見事総合最優秀新人賞を獲得した。また置田知晴三段や伊藤秀敏五段が面を取って素面で戦い、瀧沢賢次七段以来なかった「安全勝負×真剣勝負」を実践し新たな歴史を築いた。



2004年度全日本武道空手道選手権大会
第三十八回自由組手全国大会

新世紀創世伝説・英雄達の激闘
ゼロ&無限
2004年11月14日

総評
今回の大会の総評 第38回自由組手全国大会はフランスのルノー・マーシャル(身長180p、体重75s、33歳)が大きな台風の目になった。マーシャルは小学生・中学生時代は日本の伝統派の松濤館空手を学び、後のムエタイ(キックボクシング)を、学びさらに警察、モナコの特殊部隊では柔道、柔術を学び2002年に日本に渡って私から直接2週間無門会空手を学ぶ。認可した段 位は三段 。昨年の大会では全国大会5位で、今年はどこまでその実力が伸びるか注目されていました。彼の戦うスタイルは飛んだり回転したり連続攻撃をしたり非常に動く空手である。今年は昨年以上に戦い(25試合)去年以上に活躍し、強豪の伊藤秀敏五段 (身長182p)、真田英生六段 (身長190p)をポイントで破り江口慶貞六段 と決勝戦となった。結果は江口六段 が圧勝し、「TKO」のような勝ち方で勝利した。伊藤五段 、真田六段 がポイント的に負けたのは受けの空手をした両者に対して、なりふり構わずポイント稼ぎに徹したマーシャルがややポイント的に上回った。
しかしマーシャルのそうした動き回る空手も「無門会空手の複雑な受けの発展」に貢献するもので、長期的には無門会の技術向上に役立つだろう。今回の全国大会には最高齢54歳の北形正美三段 も出場し、またシニアクラスもやや充実し、来年はミドルクラス(35歳以上)の軽量級 ・中量級 を設けたいと考える。


Copyright MUMONKAIAllRightsReserved.